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身内の生死に関わるとき

私は一般の間では非常に冷たい人間と思われるかもしれません。
それは人の生き死に特に死に関してあまり心が揺れません。
まったく何もないわけではありません。
死に瀕して無念の気持ちが強かったり、不安な気持ちを抱いている人の気持ちは理解できますし、
逸れに対して心が揺れるのは人一倍だと思います。
ただ、生きるか死ぬかと言う問題ではどちらでも良いと思ってしまうのです。

死自体は悪でも善でもありません。
それは個人が後から意味付けするものでしかないからです。

昔、祖母とそのことで言い争いになったことがあります。

死ぬことが怖いのではない。寂しいのでもない。
怖いのは死後の世界がどういうところかが分からないからだ。
寂しいのは死後、こちらの世界に残されたものとは交信ができなくなるからだ。

それは、死の結果に出てくるものであり、死そのものを意味するものではない。
仮に死後の世界がどういうところか分かっており、死後も生きているものと自由に交信ができて暮ら
せるなら、死を恐れることはあるだろうか?まずないと思う。
つまりは死そのものが問題だと言うのではないと言うことだ。

ならば、永遠にあえないくらい遠いところに離れた人との別れは死別と同じことか?
違う。何が違うのか?
それは、生きている限り再会の可能性に希望をつなげるから。
ならば、死後の世界が保証されて、望むなら再会できることが保証されているならどうだろう?

死は特別な意味を持つものではなくなる。
死が無条件に恐れるものではなくなる。

死が一部(大部分?)の人にとって、絶対的な悪に思われるのは、我々の「存在」についての真実を
しらな過ぎるからではないか?

真実を知ったとき、死は悪でも善でもない、ただの通過点になる。

人は他人の生死そのものをコントロールしようとはしなくなるだろう。
ただ、それによってレイキや医学が無くなると言うわけではない。

生きている間はできる限りの快適さが必要だからだ。
そして、一人一人が自分のプログラムに沿って正しく学んでいくことが必要だからだ。

レイキはその為に人が生死の概念の問題を克服した後も存在しつづけるだろう。

私の経験を一つ述べます。
私の妻も生死の選択を迫られたことがあります。
それは三男がお腹にいたときのことでした。
前置胎盤という状態で、5ヶ月にも満たないときに妻は出血と破水をしました。
その時に、医者から90パーセント以上は出産まで胎児は持たないといわれました。
そして、このままで行くと母体が感染症に掛かる可能性があり、その場合は母子ともに命の保証は
ないとも・・・。
その時の私の感情は殆ど揺れませんでした。
私の中の答えは方程式を解くと唯一の答えが出るように迷うことなくそこにありました。

私は妻の選択を全面的に受け入れる。そして、その為にできると思われることをすべて行い、その
結果をすべて受け入れる。

堕胎をした場合、自分が助かるために胎児を見殺しにしたとなれば、出産まで持たそうとした場合
の結果がどうであるかはその時点では分からないものの、必ずそのことが後の人生の重りとなりま
す。
だから、そうなることを私から勧めることは有り得ません。

妻の選択はいける所までは、そのまま行くと言うことでした。

その結果、私は妻の現世のプログラムと胎児のプログラムが全うされることを祈り、その為にレイキ
をしました。望む結果を得るのではなく、ただ、本来のあるべき姿であるためにレイキをしました。
その結果が母子共にだめであることも覚悟をして、私はレイキをしていました。
そして、どうなったか?それは私の家族写真の通りです。

多くの人が生きることに焦点を置きすぎて、死に付いて考えなさ過ぎです。
生きるのと同じく、死についても我々は知らなければなりません。

生死に関わる出来事に出遭うのは不幸だからではなく、そう言うことを考えなさ過ぎる人への学びの
機会を強制的に設けているのだと感じています。

「神よ、何故貴方は迷える子羊にかのような試練を与えたもうのか?」
この問いは、謙虚な気持ちで自分の落ち度を認めて問うた時、答えが見つかるかもしれません。
自分は間違っていないのに!と思ってこのような問いを投げかけても、気付きは訪れません。

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